信じるということ 祈るということ

祈りがどのように答えられてきたか、自分の弱さ・強さをよくご存じで、神様がどのように導いてくださったかを記録します

スイッチを入れる

f:id:small_simple:20201220212545j:plain

【スイッチを入れる】 毎週日曜日の6時半から、4月にバプテスマを受けた友達を含めて、4人で、早朝オンライン日曜学校をしています。たまに寝坊して、ごめ~ん、というゆるい感じで、ほんとに楽しい。今日は寝坊せず、6時15分からスタート。

 

福音の原則の46章を毎週一つずつやっています。 私は高校生の時、両親の許可をもらえるまでバプテスマを受けられなかったので、この福音の原則の本を何回学んだか分からないくらい学んで、大好きな本です。

 

今日のテーマは、18章のイエス・キリストを信じる信仰でした。 https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/gospel-principles/chapter-18-faith-in-jesus-christ?lang=jpn

 

信仰、というと難しいようだけれども、私たちは、実がなると信じているから種を蒔くし、良い情報が得られると信じて本を読む、まだ見ていないけれども、自分が得たいと望む、良い結果を待ち望んで、行動を起こす。それがFaith。(日本語では信仰と訳されているので、少しニュアンスが違うけれども)。

 

イエス・キリストを信じる信仰は、悔い改めたいという望みを起こし、それによって、イエス・キリストの贖いの効力が身に及ぶ。それが、実。

 

この18章の中には書かれていなかったけれども、じゃあ、何が信仰を妨げるのだろう、と話し合っている中で、自分の弱さかな、という話になり、自分にそれができる、と信じることができるかどうか、だね。と。

 

その時に、ふと浮かんだのは、「スイッチ」 どんなに暗くても、スイッチを入れたら、電気がつく。そのようにセッティングされていて、電気代も払っていて、電気が通っているから、おじいちゃんがつけても、赤ちゃんがつけても、病気の人がつけても、貧しい人がつけても、すごい能力のある人がつけても、疲れていても、弱っていても、打ちひしがれていても、スイッチを入れたら、電気がつく。

 

それと同じように、どんな状況でも、信仰を持って、「スイッチを入れる」こと、信じて祈り、自分にできることを行うこと、で、電気がつく。自分の望むタイミングで、望むようにはつかないかもしれない、でも、スイッチは入れられる。それは自分で選べる。

 

だから、自分のことで、あーだこーだ考えている時間を減らして、とにかく「スイッチを入れる」! これで2021年やっていこう!という話で盛り上がり、7時に閉会のお祈りをして終わりました。

 

あのときのひらめきと、盛り上がりを、うまく書き表せないけれど、記録に、そして、誰か必要としている人のために、書いておこうと思いました!

新しい日常

10月の総大会の最後のネルソン大管長のメッセージ「新しい日常」を昨日電車の中で読み返す。

 

ネルソン大管長が預言者として、私たちのことを本当に心に思い描きながら、私たちがどのようなことを感じ、どのようなことで困っていて、どのような問題を解決しようとしているのかが理解できるように、主に助けを求めてくださっていることを、改めて深く、深く感じることができた。

 

この、心に思い描きながら、と言う言葉がとても心に残った。

 

自分は祈る時、本当にそうしているだろうか。

誰かの為に祈る時、そのように思い描きながら、相手の必要について本当によく理解できるように願い求めているだろうか。

 

また、もう一つ心に強く印象付けられたのは、

皆さんとわたしのなすべきことは、神から与えられた可能性をわたしたち一人一人が最大限発揮することです。

 

数日前、ホームページを助けてくれている若い友達と話していて、戸部姉妹は、きらきらしているから、もっと発信していったら、きっと戸部姉妹のことをもっと知りたい、戸部姉妹から学びたい、という人が増えて、今していることを広く社会に伝えることができると思いますよ。そうやって、たくさん人にアクセスしてもらえたら、テレビで紹介されて、もっとたくさんの必要な人に届くと思います。と言ってもらって、嬉しかったけれど、心のどこかで、そうしたい・というアクセルと、いや、無理でしょう、というブレーキと両方がかかっているような感じがした。

 

でも、自分のためではなく、ただ、必要としている人に届くように、つまりは、人がより幸福になることが進むことを目的にしていたら、自分が本当にそれを信じていったら、これまでのように、自分が考えもしない道が開かれるのかもしれない。

 

 

末日聖徒イエス・キリスト教会で年2回開かれる総大会では、神の預言者を通して、現代に必要な神のメッセージを聞くことができる。

 

別人になるプロジェクト4

今日の聖句

 

5/2200

 

is visited by the wise men, Matt. 2:1–12.

博士たちの訪れを受ける マタイ2:1-12

博士たちは、長い間待ち望んでいた救い主が生まれたことを告げる星を見つけ、遠い旅路をはるばるとやってきて、贈り物をささげた。それが、クリスマスに贈り物を捧げることになった由来だ。

 

博士たちは、どれほど嬉しかったことだろう。

黄金・乳香・没薬という、当時最も貴重な贈り物を捧げたことからもわかる。

 

新しいビデオ、幼子キリストの撮影秘話に、博士たちが訪れたとき、イエスは2歳ころだったという推測で描かれていると語られていた。

www.comeuntochrist.jp

 

贈り物。

 

私は、神と人々にどんな贈り物を捧げることができるだろう。

 

 

 

 

 

別人になるプロジェクト4

今日の聖句

 

5/2200

 

is visited by the wise men, Matt. 2:1–12.

博士たちの訪れを受ける マタイ2:1-12

博士たちは、長い間待ち望んでいた救い主が生まれたことを告げる星を見つけ、遠い旅路をはるばるとやってきて、贈り物をささげた。それが、クリスマスに贈り物を捧げることになった由来だ。

 

博士たちは、どれほど嬉しかったことだろう。

黄金・乳香・没薬という、当時最も貴重な贈り物を捧げたことからもわかる。

 

新しいビデオ、幼子キリストの撮影秘話に、博士たちが訪れたとき、イエスは2歳ころだったという推測で描かれていると語られていた。

www.comeuntochrist.jp

 

贈り物。

 

私は、神と人々にどんな贈り物を捧げることができるだろう。

 

 

 

 

 

別人になるプロジェクト4

今日の聖句

 

5/2200

 

is visited by the wise men, Matt. 2:1–12.

博士たちの訪れを受ける マタイ2:1-12

博士たちは、長い間待ち望んでいた救い主が生まれたことを告げる星を見つけ、遠い旅路をはるばるとやってきて、贈り物をささげた。それが、クリスマスに贈り物を捧げることになった由来だ。

 

博士たちは、どれほど嬉しかったことだろう。

黄金・乳香・没薬という、当時最も貴重な贈り物を捧げたことからもわかる。

 

新しいビデオ、幼子キリストの撮影秘話に、博士たちが訪れたとき、イエスは2歳ころだったという推測で描かれていると語られていた。

www.comeuntochrist.jp

 

贈り物。

 

私は、神と人々にどんな贈り物を捧げることができるだろう。

 

 

 

 

 

今日の聖句

 

5/2200

 

is visited by the wise men, Matt. 2:1–12.

博士たちの訪れを受ける マタイ2:1-12

博士たちは、長い間待ち望んでいた救い主が生まれたことを告げる星を見つけ、遠い旅路をはるばるとやってきて、贈り物をささげた。それが、クリスマスに贈り物を捧げることになった由来だ。

 

博士たちは、どれほど嬉しかったことだろう。

黄金・乳香・没薬という、当時最も貴重な贈り物を捧げたことからもわかる。

 

新しいビデオ、幼子キリストの撮影秘話に、博士たちが訪れたとき、イエスは2歳ころだったという推測で描かれていると語られていた。

www.comeuntochrist.jp

 

贈り物。

 

私は、神と人々にどんな贈り物を捧げることができるだろう。

 

 

 

 

 

#感謝のキモチ 自分が自分であるということ

20201210

昨日は朝から失敗して叱責を受け、でも何とか挽回して、夜は「よくやりました!」とねぎらいの言葉をいただき、感謝。

 

20201211

私の記事を読んで、若い頃から苦労をして乗り越えて、今は人を助けようとしていることに何かインスピレーションを感じて、自分のことを手紙で伝えたいと連絡をしてくださった。

 

自分が書くことで、何かを感じてもらえる、ということは、とてもありがたいこと。

そんなことがあるなら、やっぱり書き続けようと思う。

 

自分が自分であることは、とても意義深いことなのだ。

どんなに失敗をしても、どんなに弱くても、あきらめないで、歩み続けることで、またそれが誰かの役に立つ。

 

今朝、読んで、心が震えて涙があふれた。

「試され、証明し、磨かれる」

www.churchofjesuschrist.org

 

「たとえ少しでもだれかの重荷を軽くするときに、わたしたちの背は強められ、暗闇の中に光を感じ取れるようになるのです。」

 

苦難は、主から「少し磨かれている」ということ。

 

自分の愚かな過ちも、人から受ける仕打ちも、すべて、「少し磨かれる」ためにある。

 

「主がもう少し磨こうとなさるときに、確固とした進行で重荷に耐え、人が重荷を負えるように」